『黄金時代』覚え書き/2

第10章 文法の円形刑務所

島の言語は多彩な接頭辞や接尾辞であふれ、語幹は単なる付属物に成り下がっていて用をなさない。そのまま消え去るのかもしれない。また、さまざまな格があり、また生まれつつあり、これらから「幽霊のようなリズム、表紙、テンション、息継ぎ、煌めき、動く影を通して、そしてまた私たちがいかなる名称も持っていない事象内部あるいはその表面の動きといったあらゆるものを通して、現実」を紡ぎ出している。チェコ語も島の言語に翻訳したくなる。自分の言葉で小説を書いてみたらどうなるか。解読したものが新しい文法を発明するかもしれない。

 

第11章 文字の冒険

島の文字もまた多様性に溢れ、絶えず変化している。図象から抽象的な記号への変化、またはその逆。そればかりでなく一読しただけでは読み解けないくらい複雑化したもの。島の外の言語も島の文字に影響を与えたがやがて吸収された。文字同士が影響を与えあい、境界線上でぶつかり合う。つまりは文字自体が生きているーー比喩的な意味でーーということか(感想)。

 

第12章 デ・ボザール通りのカフェ

文字が文字とモノとの境界線を越えたがっている。文字とモノとの共生に快楽を持つ島民。バウムガルテンの話。彼は執筆作業中に検討していた美術理論の中に「何か幽霊のようなものと遭遇した痕跡の残響を感じ」、「これまで注意を払うことのなかったモノだけではなく、思考や身ぶりにも何かが振動しているのに気がついた」 「これは存在という幼虫が見せる動きのようなもので、命名された既知の世界の出来事が誕生するよりも前に、またモノが固定されるよりも前に、ある存在が、目を開かぬまま身悶えたり、襲いかかったり、体を捻ったりしているようなものだった。もしくは生まれたばかりの生々しい時間が痙攣しているようなものであって、その時間は、世界各地を巡礼するのに必要な透明な燃料となって、モノに浸透していく。男はこういった動きに嫌悪感を覚え、べたついた、暗く濁った水槽を見ているような印象を受けた。だが、ふとした瞬間に眩いばかりに輝きを放つこともあった」これまで扱って来た理論における美とはまさにこの輝のことではないか。美とは「不断の逃亡の過程にあるもので自分の姿を隠し、そして、ちょうど星座が消えたと思った瞬間、美がある」ことに気づく。目につくものに振動を見出すのだが、ある日突然止まっていまう。振動を求めて歩き回りある納屋で眠り込んでしまう。

『黄金時代』覚え書き/1

第7章 隠れた王

王は「選挙、議会、国民投票、世間話、ゴシップの中間に位置するような制度によって決ま」り、人々の間でうつろいゆく名前がちょうどよい均衡を持つようになった頃なんとなく決まる。王の言葉もまた人々の間、網目をうつろい、時にはざわめきから生まれる「水の言葉」に取り込まれるまた取り込むこともある。偶数回間違われると、王の言葉と一致する。島民は法の正当性を遵守する。愛の話。島の人々は土地と愛を切り離すことはできないので貞操観念はない。

 

第8章 王宮にて

不在の中心こそが中心になっているのではないかという仮定。カフカの『城』の話。島はカフカの世界とは真逆であるとい私の説明。カラエルの疑問。王に会いに王宮に会いに行く2人。果たして王に出会う。いつか見た女性であった。王であることにどこか恥じているご様子。島民も王に対してはある種の侮蔑を持っているように思える。

 

第9章 言葉とざわめき

島民のしゃべる言葉は、相手が発する言葉よりも周囲の音に耳を傾けているのではないか。島民は、既成の帝国である最終的な状態にある思考には興味がなく、場のざわめきのする外側に注意を向けている。外側のざわめきにこそより独自な思考や未知の思考が隠れていてそれをみいだすことが話すということ。言葉に楽園を見出してはいない、むしろ一度も離れたことのない、思考の生々しい泉を失ってしまうのではないかと恐れていた。島から出て北方に戻ってからもさまざまなざわめきに耳を向けるようになった。

酔う

ということ。まあ、酔っていたのである、ほんの2、3時間前まで。貰い物のdoburokuを飲んで美味しい地鶏を食べていい感じになっていた。そんでさっきまで寝ていた。わざわざこのようなエントリーを立てるということは、酔ってなにか素晴らしい着想、大悟などを得たと思うかもしれない。だがそのようなことはないのだ。酔いを得ていたので気持ちも朦朧としていて、沈思する余裕などどこにもなかった。酔いから得られるものはないのである。このエントリーの中身のなさを持ってそれを証明している、そのような意図を持って今これを書いている……。

感想

の感想、という話。映画感想を書くときに、感想だけを書くのは実は簡単で、あれが良かった、これがダメだった、演出がどうのこうの、俳優が良かった、音楽が良かった、などなど描こうと思ったらいくらでもいける。脈絡とか考えないとさらに楽。思いつくままに徒然と、というやつ。これにあとがきをつけようと思うと難易度はぐっと上がる。映画を一度反芻して分解して再構築しないといけないからね。なかなか気力を要するのである。というわけで、このブログでこれから多分感想も置くことになると思うけど、感想だけを載せていたら楽をしてるなこいつ、と思ってください。

あ、これまでの作法に則るだけじゃ成長というものがない、と思われるのも癪なので、今年はちょっと違った形式の感想も載せて起きたい。どういうものになるのかは秘密(考えていない)乞うご期待。

国志について書かねばなるまい。最近はそればかりなのだから。長坂坡からの大逃亡劇、旧ドラマ版を見たら新ドラマ版を見たくなり、ついでにということでレッドクリフまで手をつけてしまう狂いっぷり。レッドクリフの頭の悪すぎる曹操はちょっとダメだよね。上はともかく、下はあまり出来が良くないと思う。ジョンウー節でドッカンバッタンやったせいで全体の知能指数がだいぶ落ちてしまった。それにしてもやはり曹操。あと孔明はキチンと台を作ってそれっぽい作法に則って(霊幻道士みたいなやつね)風伯を呼ぶ儀式をやれば良かった。まあそれはともかく。旧ドラマ版も新ドラマ版も、劉備のダメっぷりがすごい。物凄くダメなやつなのに、仁義の人だと持ち上げなければならないので、無理がたたって大変おかしなことになっている。旧ドラマ版のしみじみと逃亡のテーマ曲が流れる中、忍びない民の窮状を見かねた劉備が発作的に船から身を投げようとして慌てて孔明らに止められるところは大変素晴らしかったです(お腹痛くなった)音楽は旧ドラマ版が断然上だよね。趙雲はどれもかっこいいけど、旧ドラマ版が1番かっこいいかな。白い鎧姿が返り血を浴びて真っ赤に染まるとかなんか特に良いです。張飛が大声で恫喝すると気分を害して馬から落ちて死ぬのでびびった曹操が1時退却するところはどれもよくわからなかったっす……。こればっかりで、初夢は長坂坡の初夢を見ちゃったな、熱にうなされながら……

一応今日から

ブログを書くことにした。新年の抱負というやつだ。新年始まってもう10日あまりたってるがな。果たしていつまで続くのか。いや、続けるのだ。とりあえず映画感想とか書いていこうかと思うけど、まあ。あと、ネタ帳代わりとか、ネタを広げるためにも使っていこうかと。