体のかたい猫の話

体のかたい猫は伸びができません。高いところからも降りられません。だから高いところにはのぼりません。関節技にも弱いです。でも猫に関節技をかける人はいません。狭いところには入れません。広間でのびのび四肢を伸ばしますがそれでもちょっと窮屈そうです。お友達の猫、これは普通の猫で柔軟性に富んでます、と一緒に散歩するときも、くっついていくのはとても難しい。だからお友達の猫は体のかたい猫に合わせてゆっくり歩いてくれます。体のかたい猫には子供がいます。子供たちはみな体が柔らかいです。体のかたい猫は、体の柔らかい子猫たちの枕になって一緒に休みます。夢の中では海月となって水中を漂います。心は柔軟なので。

例のアレ

と言ってもあの漫画の話なんだけど、寝る前のうだうだと目をつむってる間に考えたことなのだが、そろそろ真面目にまとめ出口のなんか一本に書き上げなければなあ、と。おそらく日本で1番あの漫画について考えたのは自分なんだし(根拠は無論ない、だがボクシングの試合を3試合くらいは見たぞ、多分)、まとめないと自分が先に進めないという気もする。まあ、気のせいなのだが。先とはつまり自分でも、ということである。やるんなら腰を据えてやらないといけないな、と思っているのでこのブログに置いておくかは今の所不明である。うん、ぼかして書いてるんだ抽象度高くなっちゃったな。

『グランド・イリュージョン』2014

   イリュージョンとしての映画、奇術としての映画。

 

 若きマジシャン、ダニエル・アトラスは派手なパフォーマンスで観客を魅了する腕利きであり、自信に満ち溢れていた。助手として使った観客の1人の女性を部屋に連れ込んで、ことに及ぼうとしている最中、一枚のタロットカードが靴に仕込まれていることに気づく。

 3月29日、 4;44、ニューヨーク東エバン通り45

 

 謎めいた文言とともに挑戦的な瞳の描かれたタロットカードに魅了されたダニエルは、カードの指し示すままに指定の場所に向かうと、そこでかつての助手で、女性マジシャンのヘンリー・リーブスとであう。彼女はタロットカードをダニエルに見せる。いぶかしむ2人が部屋に向かうと、扉の前に1人の男が佇んでいた。メンタリスト、メリット・マッキニー。彼もまたタロットカードに導かれてやって来たのだ。しばし口論する3人だったが、最後に訪れた4人目のマジシャン、ジャック・ワイルダーによって扉の鍵は破られる。

 

 暗く汚れたバスルーム。寒々しい室内。4人はメッセージカードと白薔薇を見つける。ヘンリーが白薔薇を水差しに刺すと、水は漏れ出し床の凹みに溢れドライアイスを噴き出す。メリットが電球を回すと装置が作動しホログラムが像を結んだ。複雑な図形を描くそれは何者かからのメッセージであり、新たな世界への招待状でもあった。

 

 一年後、4人はフォー・ホースメンを称し、ラスベガスでマジックショーを開いていた。ショーの演目は銀行強盗である。無作為に選んだ観客の1人に瞬間移動ヘルメットをかぶせると、フランスの銀行に一瞬にして移動させる。男の前には札束の山。命じられるままに署名したカードとチケットを山の間に投げ込むと300万ユーロは勢いよくエアダクトに吸い込まれ、会場には札の雨が降る。

 

 4人は逮捕されFBIの捜査官、ディラン・ローズの尋問を受けるも証拠不十分で釈放される。ディランはフランスからやって来たICPOの女性捜査官アルマ・ドレイと協力し、トリックを知るために元マジシャンで今はマジックのタネ明かしをすることで財を築いているサディアス・ブラッドリーの助勢を仰ぐ。犯行を確信しているディランはフォー・ホースメンの次回公演に万全の準備を持って挑戦するのであった。

 

 ダニエル役はジェシー・(ザッカーだったっけ? アイゼンだったっけ?)バーグ。今回もあの早口は健在で、カリスマ的マジシャンを説得力たっぷりに見せてくれます。もう1人の主役のディランにマーク・ラファロ。しょぼくれた冴えないコロンボ、といった感じで(コロンボ自体がしょぼくれているというツッコミはまあ)この人は役所として、見せ場は最後の最後になっちゃうのは仕方ないところでしょう。メリット役にウディ・ハレルソン、ヘンリー役にアイラ・フィッシャー、そしてジャック役にはデイブ・フランコです。デイブはちょっと兄貴に似てますけど、あそこまで不健康そうな◯中顔ではありませんね笑。サディアス役にモーガン・フリーマンでこの人はいつも通りです。フォー・ホースメンのパトロン、アーサー・トレイラー役でマイケル・ケインなのですが、もうちょっとモーガン・フリーマンとの絡みを見たかったところ。監督にトランスポーターのフランス人ルイ・ルテリエ。そして脚本には個人的に懐かしみを感じるエド・ソロモンが入ってます。まだ無名で若かりしキアヌ・リーブスの主演作、ビルとテッドの大冒険の脚本の人ですね。

 

 冒頭、アイゼンバーグがカメラ目線で明らかにこちらの観客を意識してカードを見せ、それを当ててみせる、というけっこう挑発的なことをしています。(このトリックのタネ明かしはググってみてくださいね、けっこうすぐわかります)ただまあ手品的なことが映画という媒体でやれるのはこれが限界なのかな? と思わなくもなくて、ここから先はただもう力技のイリュージョンが展開されます。映画として詐術を展開する手法として、映像的にあるいは脚本的な演出でもって観客を欺く、というやり方があります。この映画でももちろんそういったことをやっているんですけど、正直、この映画より優れた映画はたくさんありますし、それよりもこの映画が重視しているのはイリュージョン的な映像スペクタクルです。ちょっと過剰かなと思えるようなCGIを駆使したマジックは私たちをめくるめく魅了してくれます。しかしその反面、映画の中で語られるトリックは説得力を失います。モーガン・フリーマンの語る真相がどれだけ白々しく語られることでしょう。そう、この映画において黒幕のもくろみがそこにあるということを考えれば、それは必然なのです。

 

父親殺しの話

呪いを解くという話である。まだ幼く確かに弱者であった頃、自分の深いところに刻まれてなんとなく自分を縛っている記憶というか原体験みたいなもの。ここでは父親の話をするのでそうしておくけど、長じてからもそういう記憶は自分を縛っていて、たとえば怒られたりした時なんかに反射的に身がすくんだりする。世に言う父親を超える、ということはさような身のすくみを克服する、ということでもある(そもそもそれは克服するものなのかどうかはまあ置いといて)。じゃあどのように克服するかということだけど、通過儀礼として暴力に訴える、というのがあるのかな。また、このような呪縛があるということは自分を縛っている人間がいるということで、それはつまり自分より上の人間がいるということで、ここで唐突に刃牙の話になるけど、勇次郎との喧嘩が終始じゃれあいに終わったのは、もうすでに刃牙にとって呪いを解く必要はなくなっていたからだろうか。(なんか父親に認められて嬉しくなってたもんな、自分より上の人間を作ってどうすんだ刃牙、つーか世界で二番目に弱くても父親より強けりゃそれでいいと言ってたじゃないか)まあ、すごく適当なことを言ってる気もしてきたので読み返さねばとは。

赤壁の

ところまで三国演義見ているけど、好きなキャラは周瑜魯粛にあと徐庶、ということで、これは孔明のせいで迷惑を被る人たちだということに気づいた。徐庶は逆に孔明に迷惑をかける人なんだけど(劉備孔明を紹介してそのことで孔明に怒られる)メタ的に見れば孔明の引き立て役だからね。蔣幹が周瑜の引き込みを図って呉に乗り込むんだけど、すぐに察した周瑜はゴロツキ、もとい将軍たちを集めて飲み会を開き剣舞を踊って蔣幹の心胆を寒からしめるわけだけど、どんなに弁がたっても暴力の持つ力には敵わないのだなあ、と。いざとなればお前くらい素手で殺せるんだからな、という剣呑な胆力を持ってるくらいじゃないとと一流の弁舌家にはなれない非常の世界なのだ(ちょっと前くらいだったら論破されると煮殺された)。その点、いつも泰然としてる孔明とは…

走る

ということ。最近走ると次の日めっちゃ右膝が痛くなって困るんですけどー。5キロ走っただけでアウトなんですけどー。走らないとせっかく作った足がもったいないんですけどー。というわけで久しぶりに7キロくらい走ってきました(うち3キロくらいは山道)。台風で脇の杉が倒れてまったく山道が見えないくらいだったのにわりと綺麗に、いやそれほど綺麗でもねえな、整備されていました。多分明日は走れません。膝的な理由で。膝サポの力を借りるときが来たか。

片付け

部屋の片付けをちょっとやった。いらない本を段ボールに詰めてDVDを棚に並べただけだけど。よつばとはどうしようか、これも段ボールに詰めてしまおうか。よつばとを段ボールに詰めるの、なんらかの批評的行為っぽい。ダンボーだけに(説明が必要)。それにしてもまったく片付いた気がしない。積まれた本の山をどうにかしないといけない。大地震が来たら本の山の中で死にそうだ。捨ててもあとからあとから増えているような。なんか世の中の本読み諸氏は積ん読の山をわりと誇らしげに思ってるような気がしないでもないが、自分的にはだんだん本が憎々しく思えて来て仕方がない。やはり決断的決断(断固たる決断みたいなもの)をしなければならないのかもせれない。